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執筆者の写真早大 映研

耳をすませて目をこらす場所

お久しぶりです!先週の更新ができずに申し訳ありません!

今年ももう終わりですね。これまでと同じような生活ができず、サークル活動も思うようにいかなかった一年ですが、皆さんにとってはどんな年でしたか?早く元の生活に戻りたいと多くの人が思っていると思いますが、ステイホーム期間を逆手にとってたくさんの映画に出会えたという人も少なくないと思います。私はこの期間にNETFLIXとAmazon Primeを契約して、今まであまり観てこなかった海外の映画を観漁りました。来年もたくさんの映画に出会っていきたいですね。

それでは気を取り直して年内最後のブログ、今週もサークル員による今年のイチオシ映画を紹介していきましょう!今週の投稿も吉田嶺さんです!


 

私たちの多くはもはや映画館を信用してない。私たちが「傑作だ!」と思った映画のうち、果たして何本を映画館で見ただろうか。3Dや4DX、IMAXなどで劇場体験の価値を持ち上げるのは結構だが、シネコンの映画鑑賞だけが劇場体験ではないはずだと、少なくとも私はどうにかして信じたい。そんなことをぼんやりと思いながらいつも映画館へと足を運ぶ。


その日の夜9時から上映された『イサドラの子どもたち』はダンサーたちの映画だった。彼女たちは、我が子の死に対する思いを表現した演目『母』を踊る。100年ほど前に記されたその踊りの記録(舞踊譜の複雑さ!)を読み解き、体に染み込ませ、己の表現にする。そんな寡黙な模索がカメラで記録される。

そんな彼女たちの人物像はほぼ語られない。監督のダミアン・マニヴェルはこれまでの作品『パーク』『泳ぎすぎた夜』で人間を抽象化させてきた。名前は意味を持たず、生活感も感じられない。人々の背後に広がる社会も積極的にフレームの外へと追いやられる。そのアプローチは今作にも共通している。『母』の踊りの全容も映し出されない。映画監督の濱口竜介は「カメラは(中略)ダンスが立ち上げているこの〈場〉全体、そこで起きている関係性の全体を捉えることができない」*と書いている。ダンサーが作り出す、観客席をも覆う空気のようなものは映像には映らないのだとマニヴェルも知っているのだ。

そこで彼は、ダンスの全容を撮る代わりにダンサーの手を、腕を、足を撮った。彼女たちが全神経を注いでいる身体の細部を見つめ続け、その身体をコントロールする静かな呼吸に耳をすませた。ダンサーが生み出す緊張感に満ちた時間を、絶対に捉え損ねまいとする強靭な意志が映像にみなぎっている。その緊迫した映像は私たちの目を離さない。画面を見ようとすればするほど、その磁力もまた強くなる。そして彼女たちがダンスを繰り返すたび、抽象化されたがゆえに溢れ出てきてしまう、身体という圧倒的な具体性が浮かび上がる。



私が画面を見つめて緊張している間、その劇場にいた他の観客たちもまた私と同じように画面に見入っていたのだと思う。もちろんぼんやりと眺めることもできたはずだが、それを許さない凄みが映像に満ちており、私だけでなく他の観客たちもその気迫を感じていたのだと信じたい。このとき私たちは一種の共犯関係を結び、ともに映像に見入ることで静謐な空間を作り上げていた。これは一つの〈場〉と言えるだろう。ダンスを映像に収めるときに消えてしまう〈場〉とは別種の、同じ空間の中にいる観客たちが一つの映像を見ることで立ち上がる新たな〈場〉。このような〈場〉は映画館にしか生まれ得ないのではないか。それこそが私たちが映画館で映画を見る理由の一つだと気づいたとき、私はもう一度映画館を信じてみたいと思うことができた。(吉田嶺)


*濱口竜介『「映像にダンスは映るのか」問題について』(ユリイカ2018年9月号収録)

 

『イザドラの子どもたち』(原題:Les enfants d'Isadora)

監督:ダミアン・マニヴェル 2019年/84分/仏

 

ダンス映画の独特の空気感には心奪われるものがありますね。こういった作品はぜひ映画館まで足を運んで観たいものです。フランス映画にはあまり馴染みがない私ですがぜひ観てみたくなりました。

それでは来年も我がブログを何卒よろしくお願い申し上げます。皆さん良いお年を~~~!!!


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