みなさん!2021年になりました!あけましておめでとうございます!!今年もよろしくお願いします!
先週は更新ができず申し訳ありません。本年も我が映画研究会を盛り上げるべく、ブログではサークル活動やサークル員の映画にまつわる話を紹介していければと思います!昨年はサークル活動もままならない状況でしたが、今年はいろんなことが経験できる良い年になることを願っています。みなさんの2021年も、素敵な1年になりますように…!
それではさっそく今回も進めていきましょう。本年一発目のブログは、《マイ・ターニング・シネマ》と題しまして、タイトルの通り”サークル員の人生を変えた映画”を紹介していきたいと思います!このテーマの記念すべき第1回目は、大森開登さんです。
「赤色彗星倶楽部」は、僕の自主映画に対する固定観念を鮮やかに破砕した、その名の通りインディーズ界の彗星ともいうべき作品だった。
自主映画と言えば、とても内向きで、資金が乏しいゆえに貧相で、風が吹けば飛ぶようなもの、というイメージがあった。しかし、この映画は著しい放熱を行う、強度のある作品となっている。
僕は、本作の主題は「昭和末期日本映画への礼賛」ではないかと考える。おそらくタイトルは稲垣足穂の短編小説「彗星倶楽部」と関連があるのではないかと思われ、ここに製作者の文学愛と遊び心が垣間見える。それと同時に、やはり邦画ファンは「倶楽部」と聞いて相米慎二監督「台風クラブ」(1985年)を想起するに違いない。軽音楽部の演奏に合わせて乱舞する少年少女たちの有様は、さながら「台風クラブ」のプールサイドで主人公たちが曲に合わせて踊るオープニングのオマージュであり、哲学的文言の挿入に至っては、あからさまに「台風クラブ」を意識していると断言せざるを得ない。ド・ジッター博士の人物造形の奇怪さやシナリオに挿入される枝葉末節ともいえる。実際、監督の武井佑吏は大林映画のファンであることを上映会の後のトークショーで告白している。
結局のところ、青春とは刹那的無意味の集積であり、青春群像劇はそれらの美化に過ぎないことをこの映画は静かに告白している。それは「台風クラブ」が描いた大人になることの不安や残酷さの表現とマッチしたものである。主人公たちは持て余した熱量を、無意味に発散することで青春を体現しようとしている。それが「普遍的に平凡で、余韻だけが鮮やか」な青春となるための条件なのである。
雑然とした日常が、ある出来事によって急激でなく緩慢に崩落してゆく。それはあまりにも残酷なものだろう。しかしそれらの忘却が、成長のための捨象が唯一彼らを救済しえる。「ズンドコ」忘れることで、苦悩が少年少女たちの余韻へと変換されるその瞬間、映画は確実に胎動している。
彗星落下が天文部の部員たちにもたらしたものは、果たしてタイムパラドクスなのだろうか。彼らに与えられたのは「死」であろう。しかし、それは人間としての、肉体の終焉としての「死」ではない。それは世界の「死」か、否か。おそらく、ラストシーンは解釈が分かれることと思われる。
特筆すべきは、ハナ役・手島実優のたたずまいと演技だ。彼女の存在感が、この映画の80年代性を総括していると言っても過言ではない。彼女の持つ憂鬱さと暗さは、35年前に洞口依子がスクリーンで解き放ったそれと完全に符号しているからだ。この作品の後、山戸結希プロデュース「21世紀の女の子」でキャスティングされ、彗星のごとく映画女優への道を突き進んでいったのだった。(大森開登)
『赤色彗星倶楽部』2017年/82分/日本
巨大彗星の到来を控え浮き足立つ天文部を舞台に、高校生たちの平凡で刹那的な青春を描きPFFアワード2017で日活賞と映画ファン賞を獲得したSF群像劇。武井佑吏監督は本作が長編デビュー作。
映画って、なんとなく観るものから大きな期待を抱いて観るものまで様々ありますが、そんなふうに観る時の状況によらずとも、人々に与える影響は計り知れないですよね。こうして映画というものが人の心の中で大きな存在になるからこそ、たくさんの映画が作られ、語り継がれていくのだと思います。
自分の人生に影響を与えた映画、みなさんにはありますか?ぜひみなさんのターニングポイントとなった映画についても知りたいです!私にもありますよ~!!のちほど私の話もできたらいいな・・・(笑)
また、こうしてこの先も人々の人生を大きく変えてしまうような驚くべき映画が生まれること、そしてそんな映画にみなさんが出会えることを願っています。
それでは2021年も張り切っていきましょう!また来週!!!
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