先日、早稲田松竹の小森はるか特集(『息の跡』『空に聞く』の2本立て、『二重の街/交代のうたを編む』のレイトショー上映)のドキュメンタリー映画3本を観てきた。とかく圧巻の一言だった。
小森はるかは、映画美学校出身の映画監督だ。『息の跡』の時点では、アルバイトをしながら映画制作を行っているようだ。2009年に最初の作品を発表した後、最初の劇場公開作品『息の跡』を2013年に発表して以降、次々と話題作を発表している。
この3作品すべてで小森がテーマとしているのが、東日本大震災で被災した市町村と、そこで暮らす人々だ。『息の跡』ではタイトルの通り、事務所を流されながらも這い上がり、タネ屋を営みながら震災体験を外国語で綴って世に出す男性の奮闘の日々において、小森との対話を交えながら、それも息の跡がはっきりと見えるようなダイヤローグが展開されている。カメラを回す人物(=小森)は、90分間徹底して男性のみを捉え、被災地かつ舞台となる岩手県陸前高田市の多くを語らせずに作品の大きな背景として位置させることで、ドキュメンタリー映画の持つ被写体の個人の語りを最大限に引き出している。防災事業として行われる「かさ上げ」によって、今のたね屋の事務所、そしてかつての故郷が土の下に埋まってしまうという運命の悲惨さを、私たちはたね屋の主人の陽気なふるまいの裏側から感じ取ることができるだろう。
『空に聞く』は、これも同じく陸前高田を舞台とし、震災から数年経って地元コミュニティFMのラジオパーソナリティとなった女性の数年間を追っている。膨大な歳月と撮影素材をわずか70分という尺数のうちに収めることですら困難なことのはずだが、そこには『息の跡』よりもソフィスティケートされたコミュニケーション描写が見て取れる。
『二重の街/交代のうたを編む』では、4人の語り手が(しかも被災者ではない人物も含めた)詩、あるいはそれに準ずるようなテキストを作中で読み上げながら、あの日という「境界線」を必死に模索する姿を描いている。彼らの読み上げるテキストは、2031年の陸前高田の未来予想図(となるようなフィクション)だ。そのころには、かつてあった陸前高田は地中に埋まってしまっている。映画内の現在と2031年をつなぐ詩は、地元市民の前で朗読されることで共有され、立ち現れてくる。
私がどこで一番胸を打たれたかといえば、3作品すべてにたびたび挿入される地元の祭りのシーンだ。形としての、構造としての街が消失しても、街はいつでも、たとえ虚構であれ仮想であれ住民の手によって再構築されることの可能性をこの映画から知ることが出来た。祭りこそ、人々の心をつなぎとめ、かつ復興に向かわせるための重要なアイコンだったのだ。
たね屋の主人、パーソナリティの女性、詩を読みあった若者たち、そして市民ひとりひとりが「祭り」に吸い込まれていく姿がそこにはある。新型コロナウイルスの大流行に伴う自粛の影響でそうした精神の集合の場が喪失されることで、東北の復興が立ち遅れてしまうのではないかと強く危機感を抱いてしまった。ついに祭りが行われなくなったときこそ、完全に東日本大震災以前の陸前高田を私たちが喪失してしまう瞬間だろう。
大森

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