と題をつけてしまったが、実のところ私には映画のプロデュース経験は一切ない。映画を観るときに出てくるスタッフクレジットのほぼ先頭に確実に名前が載っているエラい人なんだなぁ的な、最近までそんな程度の認識だったど素人である。
ただ、言うまでもないが商業映画においてプロデューサーの存在は無くてはならないものだ。資金調達からキャスティング、スタッフ募集や脚本チェック、スケジュール・予算管理や作品の売り込み、映画祭への出品……ここでは書ききれないほどプロデューサーの仕事は多い。よく「製作」「エグゼクティブプロデューサー」という肩書のスタッフをハイバジェット映画で見かけることがあるが、それはほとんどのハイバジェット映画は「製作委員会方式(映画配給会社や制作会社、広告代理店や企業などが寄り集まって1本の映画を企画から作る方式)」によって制作され世に送り出されているために、出資企業の社長やCEOの名前を出さなければならないからだ。1本の映画に関わる人間が多ければ多いほど、その作品の意図や表現はその人数分の最大公約数的なものに落ち着くということも多く、問題視されていることもしばしばだ。
では、自主映画はどうだろうか。
プロデューサーをつけているところも無論存在するが、特に学生が制作する映画のほとんどは、監督が企画立案から上映までのほとんどのフローを先頭に立って制作を動かしているため、どうしてもプロデューサーが必要であるという概念が希薄なようだ。なぜなら監督が全部やってしまえばプロデューサーなんて要らないからだ。
加えて、お金が動かない、という要因も指摘されるだろう。
商業映画は多くの人から受け取った資本金で映画を作っている。そしてそれを回収しなければビジネスとしての映画制作は本末転倒である。赤字なんて許されない。資金を回収するためだったら何でもする。サブスクリプションとの契約、DVDやブルーレイなどの発売、各企業とのタイアップなど……。商業映画はまず「コンテンツ」として優秀でなければならず、それを生み出すプロデューサーも優秀でなければならない。
一方で、自主映画はスポンサーをとらない。監督のバイト代か自販機裏に落ちている小銭が元手となる。言い換えてしまえば制作側のリスクが格段に少ない。そのうえ、作品が出来てしまえばそれでおしまいになるケースも少なくない。自主映画にはコンテンツとして優秀でなければならないという義務が発生しないのだ。
だからといって、本当にプロデューサーは自主映画においては不要なのか?
文中で、監督が全部やってしまえばプロデューサーなんて要らない、と述べた。その「全部」が監督にとってものすごい負荷であることは、監督志望の皆さんには共感を得られるかもしれない。人に面倒を掛けない分がすべて自分に回ってくる。監督の主な仕事は「演出」(何が演出なのかはここでは言及しない)であるのだが、キャストの拘束時間の限界やスタッフのギャラ発生の有無、レンタルスペースの予約と支払い、上映セッティングなど、こうした無限に発生する制作周辺の仕事・課題も同時進行でこなさなければならなくなる。そうなると、そのような仕事に振り回された挙句、自分の思うような表現や演出ができなかったり、監督としてのパフォーマンスが最大限発揮されないことが危惧されるだろう。
実際は、理想としては自主映画にもプロデューサーは必要なのだ。監督はシナリオ作成と演出にだけ集中するという環境が全くないことは、もう少し危機感を持って語られなければならないはずである。そろそろプロデューサーの仕事を安心して誰かに任せられるようにならなければ、監督はバイトや自販機下の小銭漁りをさらに高頻度に、さらに綿密にやらなければならないだろう。
この連載は、以前からインディーズ映画におけるプロデューサー業務と映画制作の完全な分業化に興味を示している筆者が、実際にプロデューサーとして企画を立ち上げ、スタッフを呼び制作の進行に携わってみた経験談と、そこから編み出したプロデューサー業務の理想像を書き連ねたものになる(だろう)。そして、この連載を読んでくれた人たち、主にこれから映画を制作しようとする人たちの一助となるようなものにしたいと思っている。
文才もない癖に文章を書くのが好きな私だが、映画制作がより活発化するために頑張って筆をとり、自主映画におけるプロデューサーというセクションの有用性を浮かび上がらせていきたいと思っている。そして、職業としての映画プロデューサーをいかに自主映画に落とし込むかという点に着目し、わかりやすく面白い文章を心掛けたいと思う。
大森開登
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