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執筆者の写真早大 映研

新米プロデューサー日記④ 演出助手とプロデューサー 1

 そういえば、早大映研の新入生企画において新たに「助監督制度」というものができた。2つの企画の監督がバディを組み、互いの作品の助監督(以下、演出助手)を務める、ということだ。

 以前より映画サークルの映画制作において演出助手を置かないという事態は常態化していて、それでは監督の負担が莫大になり、監督が演出に集中できないのではないかと問題視していた。そもそも、サークルの人たちの演出助手(演出部)というセクションに対する誤解や偏見がひどかったということも無視できない事実である。「つらい」「きつい」……。これらがその最たるイメージだろう。実際、商業映画の現場においてはそれで通っている。しかし僕らが今これから作ろうとしているのは、ほとんどの場合自主映画だろう。演出助手がつらい、きついと感じさせない方法論なんていくらでもあるはずだと思う。

 自主映画が限界までシステマチックに作用し、集団作業による撮影のパフォーマンスをより高める上で、僕はこのイードラを打ち破らない限り映画表現の追求はあり得ないと思っている。僕がプロデューサーを志望したのも、あえて演出の外側に立ち、こうした撮影体制をより強固で確実なものにするためだ。

 

 僕がなぜ「助監督」ではなく「演出助手」という呼称を使うといえば、あくまでそのセクションのスタッフは「監督を助ける」だけではく「演出という作業全体を助ける」役割もあると考えているためだ。

 演出助手は単に監督の「下にいる」人間ではないはずだし、時と場合によっては監督と対等な関係となり演出を構築していかなければならない。それを監督も自覚しなくてはいけない。監督は独裁者であってはいけないし、演出助手は監督の奴隷であってはいけない。

 僕の尊敬する映画監督・黒沢清はあるシーンで適切な演出が思いつかない場合、演出助手(それもセカンド)にそのシーンのディレクションを任せて、本人は一服していたのだから僕はびっくりした(映画『アカルイミライ』のメイキングドキュメンタリー『曖昧な未来、黒沢清』でその様子が確認できる)。思い切ってそのような関係性に高めるという手段もある。演出の方法論は無限なのだから。


 ではどうして新入生企画に助監督制度を作ったのか(作ったのは僕ではないが)。それは、演出の領域の幅広さを知ってもらうことにある(と勝手に思っている)。

 映画の演出という作業がカメラレンズの内側にある世界で起こること(わかりやすくいうなら役者の演技指導やフレーミング)で行われると認識されている方も多いと思われる。

 しかし、実際はそれだけじゃないし、ともすればそれらの仕事よりも遥かに大事な演出作業もしばしば起きる。

 たとえば、キャストが2時間寝坊して撮影現場がピリついている、そんなシチュエーションを想定しよう。そのキャストは本作のヒロインで、彼女なしでは物語が成り立たない。後ろめたさや焦りで彼女はかなりナーバスになっている。プロデューサーも無言だがかなり苛立っている様子だ。撮影スケジュールは押しに押して決して余裕はない。

 そんなときに監督や演出助手はこれから演技をする彼女にどう声を掛けるべきか? 少し考えて欲しい。

 この「彼女に声を掛ける」という行為自体も僕は演出の領域だと考えている。「大丈夫だよ、リラックスして」となだめるか、「お前、何してんだよ」と厳しい言葉をかけるかで、彼女の心身の状態、そしてそこから引き起こされる演技のクオリティが決まってくる。それが作品のクオリティに直結してくる。声の掛け方ひとつで現場の空気も決定的に変わってくる。


 僕は演技指導や演技論に関してはズブの素人だ。けれど、今これから演技をする役者やその周りで動いているスタッフが、自分と同じ人間であることだけは分かる。彼/彼女が自分なら、という尺度ではなく、常に、彼/彼女が人間なら、という判断基準で彼らとコミュニケーションを取る必要があるだろう。

 こんな感じで、監督は予期せぬトラブル(=予期せぬ演出)に対処する必要がある。これが現場のあらゆるところで起きるのだから、到底監督1人ではさばききれないだろう。そこで必要なのが演出助手というセクションなのだ。監督の手の届かない演出領域をカバーし、作品のクオリティに貢献する。「もうひとりの監督」と言ってしまうのは言い過ぎだろうか……?

 ほとんどプロデューサー業務に関係ない演出論を書き連ねてしまったが、実は演出助手とプロデューサーは、作業範囲が時として重複することがある。次回は、それについて書いてみたいと思う。


大森

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