〈第二回となる今回のブログでは、サークル員による「今年のイチオシ」を紹介していきます。このコーナーのトップバッターは吉田嶺さんです。〉
All I have for you is a word, "Tenet". It'll open the right doors, some of the wrong ones, too.
――――『テネット』劇中より
なぜ物語の中で主人公は主人公なのか。古代からこの問いにはある程度の答えがあり、今でもなお多くの作家がその答えを更新しようとしている。『テネット』でのクリスファー・ノーランの答えは、物語が主人公だと認めた人間が主人公なのだというものだ。この映画の主人公の名は ”Protagonist" つまり「主人公」だ。
彼の作劇における主人公の無名性の追求は『ダンケルク』から始まった。それ以前のノーランは、犠牲を払う者が主人公だとしていた。『ダークナイト』しかり『インターステラー』しかり。しかし『ダンケルク』の主人公は犠牲を払うことは求められず、人物背景すら剥奪され、ひたすら生き残ることを要求される。戦争の災禍の中、生存本能だけで動く一つの生物としての人間の姿。サバイバル映画として真っ当なアプローチだろう。しかし時間の速さの違う3つのタイムラインを並行モンタージュで繋げるこの映画は、一人の無名の人間による生存闘争を見つめ続けることはしない。それは一つのスペクタクルとして、他のタイムラインのスペクタクルと共にまとめられる。人間を物語構造の中に閉じ込めて抽象化する試みだ。
その試みは『テネット』で一つの到達点を見たといえるだろう。この映画の冒頭で提示されるのは扉が閉まるイメージだ。これに対して主人公は扉を破る者として映される。そしてある時点で彼は犠牲を払う。すると彼は、従来の映画、および今までのノーラン作品における主人公らしさを奪われ、主人公のように動くことを求められない。そんなことをせずとも、もう彼はこの映画の主人公になってしまったからだ。
これ以降、彼は頭が混乱しそうな任務を果たすことになり、その中で彼は多くの扉と出会う。その中には、世界を二つに隔てるものとしての扉だけでなく、生成と消滅を司る「点」としての扉(このモチーフは『インターステラー』のワームホールのようでもある)もあるだろう。それらの扉を彼が開けることはなく、また自由意志をもって通過することもない。すべては物語が動くままに任せるよう求められる。時間が逆行するのなら自由意志も逆行するし、その先にあるのは運命論だ。全ては決まっている。
私たちは一つのパラダイムシフトを目撃しているようだ。私たちは主人公が扉を開けることが物語だと思っていたし、それが映画だと信じて疑わなかった。しかしノーランはそれに同意しない。主人公は扉を開けようと努めなくてもいい。なぜなら物語が彼・彼女を主人公だと言うのなら、彼・彼女は否応なく主人公になってしまうし、主人公の目の前の扉は彼・彼女がなにをしようと必ず開いてしまうのだ、と言ってのける。それこそが物語であり映画なのだ、というのがノーランの宣戦布告であり信条=TENETだ。伝統の存続か、新しい映画の誕生か。スクリーン上で、物語に対するノーランの固い信条と対峙するとき、私たちもまた物語に、映画に対する信条を問われることになる。(吉田嶺)
『テネット』(原題:Tenet)
監督:クリストファー・ノーラン 2020年/150分/米
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