先週、エドモンド・ヨウ監督の新作『ムーンライト・シャドウ』を有楽町の映画館で鑑賞してきた。言う間でもなく主演の小松菜奈に惹かれたためだ。公開規模がさほど大きいわけではないためか、東京23区内の上映館も少なくなり始めたため、滑り込みで観ることができた。この作品は小説家・吉本ばなな氏が日本大学芸術学部の卒業制作として執筆した同名短編小説が原作となっている(何度か映画化の話が出ては潰れ、いつの間にか企画が復活し今回ようやく制作にこぎ着けたという)。
エドモンド・ヨウという名前は、おそらく耳慣れないと思われる(実際自分がそうだった)。調べてみるとマレーシア出身の映画監督だった。早稲田大学大学院で学んだこともあるそうで、そのため日本文化や文学にも造詣が深いのだろう。昨年彼がメガホンを取った『Malu 夢路』という日本・マレーシア合作作品は東京国際映画祭に出品されている。エドモンド・ヨウ監督は、今国際的に活躍している映画監督のひとりと言える。
この作品は、まさに絵になるような瞬間をうまく映像に定着させ、原作ものとアートフィルムの感触を併せ持った稀有な作品と言える。
監督の美術に対するこだわりの強さははっきりと、映像に無国籍性とともに現れ出ている。小松菜奈演じる主人公・さつきと、宮沢氷魚演じる彼女の恋人・等が暮らす愛の巣の空間描写や色彩感覚には、舞台が日本でありながらどこか遠い世界の物語であるかのように錯覚させられるイリュージョンを感じさせる。突然、等の弟が踊りだし、家の中で壮大なピタゴラ装置が作動するなどの演出は、イリュージョンの過剰ささえ感じさせてしまう。それを差し置いても、とにかく日常描写がこの上なく丁寧に、時に大胆に切り取られている点がこの作品の魅力のひとつと言えるだろう。
ほかにもう1点、小松菜奈の演技の確かさと着こなしの多彩さに注目するべきではないだろうか。私は、衣裳やメイクに手間をかけている作品こそ真に人間描写に敏感な作品であると考えている。役者の衣裳ひとつでフレーム内の空気が変化し、役者の演技を手伝うファクターとして機能するとすら考えている。これも監督の意向がかなり反映されているようだが、さすがはファッションモデル。衣裳に「着せられている」シーンがひとつも無かった。雑誌『装苑』をたまに立ち読みするときがあり、そこで小松菜奈のページに時々遭遇するのだが、ひときわ目を引くポーズと表情でページを支配する彼女が、眩しかったことを記憶している。ここまで芸術性を突き詰める商業映画も今どき稀有だろうが、『溺れるナイフ』『恋は雨上がりのように』から数年経った―大人になった小松菜奈を感じることができるだろう。
しかし惜しむらくは、ストーリーとカット割りとの連関があまりにもお粗末だったことだろう。多くの日本映画の名作が持っているカットの流れを、良くも悪くも作家性が分断してしまっている部分が多く見られた。映画の核が「美」であるのか「流れ」であるのか。『ムーンライト・シャドウ』はおそらく反応がはっきりと分かれるような、今年度の日本映画の異端児になるだろう。
大森
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